1.ヴィレラ住居跡
京都市下京区四条新町西入る郭巨山町
1559年暮、ザヴィエルの意志を継いで都での布教を目指したイエズス会司祭ガスパル・ヴィレラは、京都に入り、ある一軒の屋根裏で2 週間を過ごしたあと、11月の中、下旬頃、四条新町西入る当時の町名「革棚町」にあった山田の後家の小屋を借りて布教を開始した。同行した日本人ロレンソとダミアンは何かと神父を援けたが、厳しい寒さの中、神父は最初藁の上に寝、数日後やっと一枚の畳を手に入れてその上に休んだ。食事といえば、ほとんど毎日ご飯と蕪汁、そして小量の塩漬けの鰯であった。そして絶え間ない投石に苦しめられた。
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2.ヴィレラ・将軍会見の地
京都市中京区衣棚通押小路妙覚寺町
革棚町の小屋で約一ヵ月を過ごしたヴィレラは、その間、建仁寺永源庵の住職に宛てた紹介状を持っていることを思い出した。早速彼に会い将軍との面会の取り次ぎを頼むと、彼は快く承知し、間もなく当時妙覚寺に逗留していた足利義輝の所へ同行してくれた。神父は、献上できる唯一の品である砂時計を持参した。将軍は献上品を喜び、一行を歓待した。間もなく神父は将軍の3ヵ条になる制札を下付された。これによって、それまで止むことのなかった近隣の人々からの狼藉が、すっかり影をひそめた。
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3.ヴィレラ住居跡
京都市中京区六角通室町西入る玉蔵町
革棚町の家があまりにも狭かったので転居先を物色したヴィレラは、1559年12月の中、下旬頃転居、翌年1月25日までここに居住した。フロイスの記録には「異教徒であるクンダノジュチョウの家」とあるが、詳細は不明である。転居したといっても、別の掘建小屋に移ったというだけで、床の半分は裸の土であり、周囲の壁はただ芦が括り付けてあるだけであったので、小屋の中には冷たい風が入り放題。神父は、寒さから身を守るすべもなかった。それでも、少しでも体裁を整えようと、神父は、布団を壁に吊るし、紙で切りぬいた十字架をそこに貼り付けた。
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4.ヴィレラ住居跡
京都市下京区四条烏丸
詳細な場所は不明。家主は酒屋を営んでいた。1560年1月25日から4月下旬までここに住んだ。家は、これまで同様の掘建小屋で、屋根は殆どなく太陽や月や星が見え、雨も雪も入り放題、壁は藁束が括り付けてあるだけのものであった。さらに近所の者からの投石が激しく、また罵詈雑言を浴びせる者の数が著しかった。家は野天に等しく、食べるものは菜っ葉だけだったので、神父は体力を失い、遂に病気となった。当初、家主は神父らに好意的であったが、住民からの酒の不買運動の圧力に負けて神父らに転居を促した。止むを得ず、別の家に移り、一ヵ月ばかりそこに滞在したが、その場所については記録がない。
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5.南蛮寺跡
京都市中京区蛸薬師通室町西入る姥柳町
ヴィレラは、1560年6月頃この地に古い家屋付きの土地を求めて転居した。以後約15年間、都地区布教の根拠地となった。しかし、やがて家屋の老朽化が進み、4 本の柱の内、1 本は曲がっており、3
本にはひびが入っている状態で、風が吹くと倒壊の危険があったため、1575年当時の主任司祭オルガンチノは、高山右近はじめ信徒らの協力を得て、新しい教会の建設に着手した。翌1576年8月15日に
は無事初ミサが捧げられ、被昇天の聖母に奉献された。俗に南蛮寺と呼ばれた三階建てのこの聖堂は、一躍都の名所となったが、1587年秀吉の追放令により取り壊された。
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6.フロイス・信長会見の地
京都市上京区下立売烏丸西入る 旧二条城跡
都での急変する諸事情によって一時堺に避難していたフロイスは、1569年3月28日京都へ帰ってきた。4月19日頃には、和田惟政、佐久間信盛らの尽力で、二条城の工事現場における信長との会見が成立した。その日、信長は自ら6〜7000人の作業員を指揮して工事にあたっていたが、濠橋の上でフロイスを迎えた。信長は、神父らに、暑いから帽子を被るようにと云い、それから約2時間、親しく会談した。このとき神父は信長に都での布教の許可を願ったが、やがて4月24日付けの允許状が届けられ、早速教会の門に掲げられることとなった。
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7.南蛮寺の鐘
京都市右京区花園 妙心寺・春光院
妙心寺の塔頭春光院には、高さ60・、口径45・、重さ68・、青銅製の洋鐘が伝えられている。どのような経過でこの寺に持ち込まれたのかは不明であるが、表面には、十字架とIHSの文字そして3 本の釘を組合せ周囲を炎光模様で囲んだイエズス会の紋章と、1577の年号が刻まれているところから、姥柳町にあった南蛮寺の鐘と推定されている。南蛮寺は、1576年8月15日、未完成ではあったが、聖母被昇天の大祝日にあわせて初ミサを挙げ、その後次第に聖堂内外を整備して、翌年には鐘が鋳造されたものであろう。
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8.曲直瀬道三の墓
京都市上京区鶴山町 十念寺
曲直瀬道三は、1507年(永正4年)10月23日京都に生まれ、天正時代都の最も著名な学者であり医者であった。たまたま結石症治療のため彼のもとを訪れたイエズス会士フィゲイレドと、霊魂不滅の問題を語り合ううちに親交を結び、その影響で1584年12月オルガンチノより受洗し、霊名をベルショールと称した。この折、彼の門下800名も、彼にならって受洗したと伝えられている。天下の名医の受洗は、一般人の一万人の受洗にも匹敵すると評判になり、朝廷からも彼の受洗について苦情が来たほどであった。
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9.有馬晴信の妻ジュスタの墓
京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町 廬山寺
キリシタン大名有馬晴信の妻ジュスタの墓が、廬山寺にある。ジュスタは中山親綱権大納言の娘で、後陽成帝の正室の妹であった。1580年(天正8年)公家今出川(菊亭)季持に嫁いだが、寡婦となり、のち1599年(慶長4 年)小西行長の計らいで晴信と結婚した。1612年(慶長17年)晴信は甲斐で斬首されるが、ジュスタは夫に罪の痛悔その他必要な祈りを勧め、キリシタンの妻としての務めを沈着に果たした。晴信の死後は、菊亭家に戻って1649年(慶安2 年)に没した。墓は高さ1.6m「慈徳院殿長岳慶寺大姉」とあり、過去帳には「菊亭右大臣経季母君」とある。
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10.インド副王親書
京都市東山区東大路通七条上る妙法院前側町 妙法院
1590年(天正18年)7 月天正少年使節とともに帰国したヴァリニャーノは、1591年(天正19年)3月3日、聚楽第において、秀吉にポルトガル・インド副王ドン・ドゥアルテ・デ・メネーゼスからの親書を手渡した。内容は、日本滞在中のイエズス会宣教師たちが秀吉の保護にあずかって布教できることについての謝辞を述べたもので、手渡された時点ではすでに伴天連追放令が発布されており、呈上する文書としては場違いな結果となった。親書は幅約75・、縦約60・の羊皮紙に極彩色に描かれた豪華なもので、文章の頭には秀吉の桐の紋章が入っている。(国宝)
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11.諸天使の元后教会跡 だいうす町
京都市下京区四条堀川南西一帯
1593年(文禄2年)来日したフランシスコ会の宣教師たちは、翌年、秀吉から旧妙満寺跡に広大な敷地を与えられて修道院と聖堂を建設した。1595年(文禄4年)には聖アンナ病院を建て、さらに聖ヨゼフ病院を完成して、福祉活動に献身していた。教会の門前の岩上通りには病院や教会で働く信者たちが住み着いたので、この辺りはだいうす町と呼ばれた。そこには、現在フランシスコの家があり、また近く岩上通りと綾小路通りの交差点には「妙満寺跡 二十六聖人発祥之地」の石碑が建てられ、また堀川通り四条病院の壁には記念の銘板がはめこまれている。
正面北に向かって小川通、左右御池通
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12.小川牢屋敷
京都市中京区小川通御池上る西側下古城町
1585年(天正13年)、秀吉は、それまでの左獄(現府庁の西側にあった)を小川通り御池上がるの地に移したと伝えられる。敷地面積は約460坪あり、表門、裏門ともに小川通りに面して付いていた。この牢は、1708年(宝永5年)の大火で類焼し六角牢屋敷(因幡町)に移るまで100年余存在した。日本26聖人の逮捕者が収容されたのは、この牢である。また、この後、1619年都の大殉教の年には、合計63名の信者が収容されており、その際、ともに京都生まれの2才の幼児ミゲルとペドロほか計8名が牢内の極端に苛酷な条件の中で殉教している。
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13.日本26聖人耳削ぎの場
京都市上京区一条堀川東入る 一条戻橋
古来、大罪人は市中引き回しのうえ処刑されたが、その場合一条戻橋は、あらかじめ罪人の顔面を傷つけるための場所となっていた。1597年1月3日、バプチスタ神父以下24名の人々が左の耳を削がれたのも、この場所であった。小崎トメは、耳を切りとられたとき、「お望みならもっとこの耳を切って満足のゆくまでキリシタン
の血をお流し下さい。」と役人に向かって云ったといわれる。このあと、引き回しの行列は、8 台の牛車に3人ずつ乗せて出発し、東に向かって室町通まで、そこから右折し室町通を真っすぐ松原まで進んだものと推定される。
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14.バプチスタ別れの地
京都市南区九条町 東寺口
現在東寺のある所は、京七口の一つ東寺口のあった所で、京の南西の出入口、大坂道の始発点であった。1597年1月(慶長元年11月)4 日聖人一行24名が、ここを通過する際、この場所まで別れを惜しんで付いてきた都の信者庄林コスメに、フランシスコ会遣外管区長ペドロ・バプチスタは、形見の品として、首に懸けていた血にまみれた十字架を渡したと伝えられている。現在その十字架は、神父の故郷、スペイン、アヴィラ県のサン・エステバンの村の聖堂に安置されている。殉教者一行は、駄馬の背に乗せられて、ここから大坂に向かった。
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15.下京教会 だいうす町
京都市下京区若宮通松原上る菊屋町
下京には、1587年(天正15年)の伴天連追放令以来公式の教会がなかったが、弾圧も小康状態になったため、1602年(慶長7年)には、イエズス会の修院が建てられ、さらに1605年(慶長10年)には約2000人を収容できる豪華な洋式木造の大聖堂が建てられた。付属のアカデミアでは天文学などが講じられ、後陽成天皇もお忍びで聴講したと伝えられている。また聖堂の周辺には信徒の家が建てられ、菊屋町に記入された「だいうす町」の地名からして、ここがかつてのキリシタンの町だと考えられている。聖堂の位置は定かでないが、おそらく菊屋町から四条町にかけての隣接地、現在の菅大臣天満宮近辺であろう。
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16.上京教会跡
京都市上京区油小路通元誓願寺西南角
1600年(慶長5年)、下京教会の分教会としてイエズス会の聖堂がこの地に設けられた。初代主任司祭としてエマヌエル・バレト、次にバルタザール・トレス、そして1607年10月からはベント・フェルナンデスが司牧を担当した。また木村ミゲル修道士が神父らを援けて働いていた。このあたり一帯は、公家、武士階級の居住地であり、毎年100名を越す受洗者があった。上京教会は、このように都での布教に重要な役割を果たしていたが、1612年(慶長17年)徳川幕府のキリシタン全面禁制のはしりを受けて閉鎖に追い込まれた。近くに「だいうすつじ」の記録がある。
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17.ベアタス修道女会受難の地
鴨川河原一帯
内藤ジュリアは、丹波八木城主内藤忠俊ジョアンの妹として生まれた。彼女は一旦嫁いだが22才の頃死別し、出家して比丘尼となった。しかし、キリスト教の教えに接する機会があって、1596年夏頃オルガンチノから受洗、以後キリシタン女性として積極的に布教活動に献身した。やがて、日本最初の女子修道会ベアタス会を創
立、修道院は下京の教会に隣接していたが、1614年の大弾圧が開始されたとき、会員は18名あり、ジュリアは若い修道女9名を他所に隠したので、彼女を含め9名が逮捕された。彼女等は俵に入れられ縄で巻かれて首だけ出した状態で、刑場として使用されていた河原に晒された。二条から六条にかけての鴨川の河原であろう。
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18.「都の聖母」埋蔵の地
京都市東山区粟田口将軍塚
250年にも及ぶ迫害の時代の終結も、容易には訪れなかった。フランス人ロバン神父は、殉教者の花束で飾られた京都での布教が、一日でも早く再開されることを祈って、ブロンズ製の聖母子像を作り、1865年「都の聖母」の名称で教皇ピオ九世より祝別を受けた。そして、京都に宣教師が入れる日が、一日でも早く訪れるように、京都を見下ろす岡の上に埋めて欲しいとヴィリオン神父に託した。1873年原田ルイスという信者によって、この像は将軍塚に埋められ、やがて1879年同神父が京都に着任するや、ただちに掘り出され、現在河原町教会に保管されている。
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19.キリシタン墓碑
京都市内各所
長期間、政治・文化の中心地であった京都は、当然のことながら禁教令が最も厳密に施行された地域の一つであった。にもかかわらず、数多くのキリシタン墓碑が発見されており、往時のキリスト教隆盛の歴史を物語っている。表面の磨耗のため文字の判読不能のものもあるが、解明できる限りでの打刻年号は、慶長7年(1602年)から慶長18年(1613年)の12年間に限定されている。形状としては、正立形式のいわゆる板碑型のものと、横置形式のいわゆる蒲鉾型のものとが混在している。以下に、出土場所および年号を記す。
(a)北区大将軍川端町一条橋西入る慶長9.7.22.
(b)北区大将軍川端町一条橋西入る慶長12.12.1.
(c)北区等寺院南町(土橋の台石として)慶長13.7.8.
(d)北区大将軍川端町 椿寺境内(手水鉢に転用) 年記不明
(e)上京区智恵光院通芦山寺上る真教寺境内 慶長7.6.5.
(f)上京区御前通下立売下る延命寺境内 慶長7.9.1.?
(g)上京区天神筋通下立売上る浄光寺跡 慶長8.6.28.
(h)上京区智恵光院裏門出水下る松林寺境内 慶長8.12.24.
(i)上京区一条通御前西入る成願寺境内 慶長11.1.30.
(j)上京区御前通下立売下る延命寺境内 慶長13.3.10.
(k)上京区一条通御前西入る成願寺境内 慶長14.7.3.
(l)上京区御前通上ノ下立売上る仲之町 慶長14.12.14.
(m)上京区御前通下立売下る延命寺境内 慶長15.11.7.
(n)上京区一条通御前西入る成願寺境内 慶長18.9.2.
(o)上京区一条通御前西入る成願寺境内 年記不明
(p)下京区醒ヶ井五条安養院境内年記不明
(q)下京区下魚棚通堀川西入る慶長18.3.3.
(r)南区針小路堀川東入る西福寺境内(手水鉢台石として)慶長13.11.1.?
(s)南区唐橋平垣町 慶長14.8.13.(小溝の石垣に転用)
(t)南区西九条川原城町(九条小学校敷地内) 年記不明
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20.都の大殉教
1619年、都のキリシタンに対する大弾圧が始まった。1 月10日下京区菊屋町通称だいうす町に住む都の信者たち36名は、役人に引き立てられて小川牢屋敷に繋がれた。その年の4 月と7月には、さらに別の逮捕者が加わったが、牢内の苛酷な条件の中で死亡者が続出した。10月6日、一行52名は処刑のため引き出され、9 台の荷車に乗せられて都の大路を引き回された。そして、大仏正面、伏見に向かう街道と鴨川との間の場所に着き、準備された27本の白木の十字架に縛り付けられた。間もなく十字架の下には薪が積まれ、火が付けられた。炎と煙が上がると幼児たちは泣き始めたので、母親たちは子どもたちを慰め、もうすぐ天国に着けると励ました。都の代表的な信者、橋本太兵衛ジョアン、その妻テクラ、13才の長女カタリナ、12才の次男トマス、8 才の三男フランシスコ、6 才の四男ペドロ、3 才の次女ルイサも、このとき殉教した。通常「大殉教」と呼ばれているものに三つの殉教がある。1619年10月6日の都の大殉教、1622年9月10日の長崎の大殉教、1623年12月4日の江戸の大殉教である。都の大殉教は、その最初の殉教であること、また司祭も修道者もいない全員が一般信徒であること、殉教者の中に婦人はもちろん、二歳、三歳の幼児から胎児まで含まれていることなど、特別な性格を持っている。このような無差別、非情な大虐殺に対して、都のキリシタンは勇敢に立ち向かって殉教の栄冠を勝ち取ったのであった。
1994年この地に殉教碑が建てられている。
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