ミヤコのキリシタン


聖母女子短期大学名誉教授 三俣俊二

   今の京都、キリシタン時代には「京」、あるいは「都」と呼ばれていましたが、宣教師の記録や手紙には、"Miaco"あるいは"Meaco"として登場します。この「ミヤコ」という言葉の響きが、彼らにとっていかに魅力的であったのかは、1549年来日したザヴィエルが、一年半の間どれだけ忍耐に忍耐を重ねて上京の時を待ったかを考えてみただけでも分かります。ミヤコには日本の王、すなわち天皇がいて、自分はその人の許可をもらって福音宣教を始めたい、そしてミヤコに聖母マリアに奉献した教会と大学とを建てたいと、ザヴィエルはマラッカにいたときから考えていたからです。彼の計画のなかには、ミヤコに創設する大学と彼の出身したパリ大学との間での教授陣の交流・留学生の交換といった東西文化の国際交流事業までが、ぎっしり詰まっていました。

 しかし1551年1月念願のミヤコに到達した彼が見たものは、一面に荒れはてた廃墟でした。まだ応仁の乱の災害から立直っていなかったからです。わずか11日間の滞在のあと彼はミヤコを去りますが、その意志は確実に後継者によって引き継がれます。1559年の暮れにはヴィレラが入京して定住。1565年にはフロイスが着任。1561年にはオルガンチノの赴任。その間キリスト教の教えも徐々にミヤコの人びとに伝わってゆきました。1576年には有名な南蛮寺の建設、1580年には安土セミナリヨ(キリスト教初等教育機関)の開校など躍進が続きます。

 だが一方、1587年には秀吉によるバテレン(宣教師)追放令があり、それにしたがって南蛮寺の閉鎖、キリシタン大名高山右近の追放などの暗い影が忍び寄ってきて、ついにはサン・フェリッペ号事件をきっかけに26聖人の殉教がありました。そして1614年には、幕府の禁教令が出て、それからはきびしい迫害と弾圧、殉教と潜伏の時代に入ります。

 京都は行政の中心でしたから、このような時代の流れのなかで、つねに一歩先進的役割を果たしてきました。三階建てのミヤコの南蛮寺は日本中に有名でした。日本26聖人が長崎西坂の丘に向かって殉教の旅に出発したのも京都からでした。まさに「道は京都から」だったのです。また、大殉教と呼ばれるものは三つあります。ミヤコの大殉教、元和長崎の大殉教、江戸の大殉教です。その中で、ミヤコの大殉教が1619年で最初のものでした。

 ところで、キリスト教でもっとも大切なものの一つは聖書ですが、1613年にミヤコに到着したジョン・セーリスという一人のイギリス人は、ミヤコのイエズス会の学林で、日本語で印刷した新約聖書を見ています。これについては、ほかにも確実な筋の証言もあり、疑う余地のないものですが、残念ながら現物は残っていません。当時ミヤコで印刷所を開いていた原田アントニオの手によるものと思われます。邦訳聖書の出版も、最初は京都で行なわれたものだったのです。