シリーズ−召命− どうして神父さまに!! パウロ 大塚喜直司教が2009年と2010年の司教年頭書簡のテーマを 「召命」 とされました。 そこで、神父様方にどうして神父さまになられたかをお聞きしました。 |
京都教区時報2009年月6月号〜2010年6月号 | |||
西野猛生神父 |
鶴山進栄神父 |
外崎 豊神父 |
村上眞理雄神父 |
北村善朗神父 |
九里 彰神父 |
奥村 豊神父 |
福岡一穂神父 |
柳本 昭神父 |
国本静三神父 |
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続編 京都教区時報2018年3月号〜 |
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瀧野正三郎神父 (PDF) |
村上透磨神父 (PDF) |
森田直樹神父 (PDF) |
小立花忠神父 (PDF) |
菅原友明神父 (PDF) |
大塚乾隆神父 (PDF) |
アントニオ・カマチョ神父 (PDF) |
今回は西野猛生神父様をお迎えしてお話を伺いました。 (○は編集子、●は西野猛生神父様です) ○ こんにちは神父様、今日は「どうして神父様になられたのですか」をテーマにお話をお聞かせください。よろしくお願いします。 ● はい、よろしくお願いします。 ○ 司祭に叙階されて何年になりますか。 ● 1960年3月20日26歳の時に河原町教会で古屋司教様により叙階されました。来年で50年になります。 ○ 洗礼を受けられたときのお話をお聞かせください。 ● 2歳年上の兄がいましたが、私が生まれる前年に亡くなり、その時に両親と姉2人が洗礼を受けました。1933年10月13日に京都上賀茂で生まれた私は、同年11月3日河原町教会で洗礼を受けました。兄の死がきっかけとなってカトリック信者の家族となったのです。 ○ それでは、どうして神父様になられたかをお聞かせてください。 ● 敗戦の年の4月、小学6年生になる時、母と1番上の姉と妹と一緒に丹波に疎開しました。縁故疎開でした。父は仕事の関係から修道院に入った2番目の姉と京都市内に残っていました。園部中学にいく予定でしたが、当時バスは薪で走っていたため、峠を登るのに時間がかかり、夜何時に家に帰れるか分からないので、近く(約6キロ)の須知農林学校に通うことになりました。そこでは、ほとんど勉強はせずに、田んぼや畑の作業ばかりしていました。2年間通った後、米軍からガソリンで走る兵士輸送車を国鉄がもらい、峠を止まることなく登れるようになったため、3年生からは園部の中学校(旧制)に転校し卒業しました。 修道院に入っていた姉が休暇で丹波に帰ってきた時に教会のことやミサのこと、修道院のことなどいろいろと話してくれました。そのころ、4年間近くミサに与る機会がありませんでしたし、その前、京都で主日のミサに与っているころにもミサ後に司祭と話す機会もありませんでしたので、司祭職のことは何も分かっていませんでした。しかし、中学3年生の秋ごろから何となく司祭になろうと考え始めていました。 ○ ご家族の方はどのように思われたのですか。 ● 兄が亡くなっていましたので、本来なら丹波の家は私が継がなくてはいけなかったのですが、月に1回帰ってくる父に司祭になってみたいと話すと、びっくりして、ちょっと待ってくれ、考えさせてくれと言いました。 ○ お父様としては、当然でしょうね。 ● 教会関係のいろいろな方と相談したみたいで、母ともずいぶん話したみたいです。3ヶ月ほど待たなければなりませんでした。 ○ お父様は、よく考えられたのでしょうね。 ● まあ、いいでしょうと返事をしてくれたのです。たぶん思いつきで司祭になりたいと言っているので、すぐに帰ってくるだろうと思っていたのかも知れません(笑)。 泰星高等学校(福岡小神学校)に入学しましたが、3年生の秋に猩紅熱にかかり卒業も危うくなりましたが、何とかできました。だが、大神学校はまず上智大学に入学しなければなりませんが、受験勉強も充分にできていませんでした。でも合格しました。本当に不思議なことの連続でした。 上智大学卒業後、東京カトリック大神学校の4年を終えて司祭になるのですが、その半年前に助祭職の叙階を受けます。そのころ、1番上の姉は他家に嫁いでおり、2番目の姉は修道女として誓願を終えていました。それで、助祭叙階前に妹に農家を継いでくれるかどうか尋ね、司祭になることを話しました。もし断られたら、神学校をやめて農家を継ぐことになります。覚悟はしていましたが、妹は快く引き受けてくれました。本当に感謝しています。 ○ 断られたら司祭になっておられなかったのですね。 ● 司祭になるまでには、いろいろな困難なことがあったにもかかわらず、先ほども言ったように、何となく導かれて司祭への道を歩んできました。司祭として、その道を歩み始めてみると、多くの人々の助けと自分には分からない助けが常にあるように感じていました。それが、神様の導きのような気がしています。 ○ 司祭になられてから、楽しかったことや喜びをお聞かせください。 ● 私はもともと人付き合いが下手でしたが、司祭になって多くの人々との出会いを通して、人間の素晴らしさを教えられたことが大きな喜びです。いろいろな方々からの話を聞くことができましたし、一部の方だけではなく、広く関わりが持てたこと、子どもから大人、種々の職業の方、信徒とそうでない方々、また社会の中で活躍されている方々との出会いは、司祭だからこそできた出会いとして今振り返っています。私にとって喜びであるとともに感謝の心で満たされています。神様の導きに従って、司祭になって本当によかったと思っています。 ○ 今日は本当にありがとうございました。 TOPに戻る
今回は鶴山進栄神父様に在住の宇治教会でお話を伺いました。 (○は編集子、●は鶴山進栄神父様です) ○ こんにちは神父様、今日は神父様になられたお話しをお聞かせださい。 ● わかりました、よろしくお願いします。 私は、カトリック信者の家系として何代続いているのか分からないぐらいの家庭で生まれました。幼児洗礼です。父は五島出身、母は長崎市内の出身です。教会は子供の足でも5分くらいの近い場所にありました。子供のころは教会に行くのが毎日ではなかったにしろ、行くのは普通のことでした。保育所では信者でない人が学年で1人〜2人で、小学校のクラスでは少なく見積もって6割ぐらいがカトリック信者でした。中学校3年生の受堅準備の2年間は、毎日教会に通いました。私の地域では中学校になれば皆が受堅します。そのような環境の中で育ちました。 ○ 学校の中でカトリックの色がありましたか。 ● 中学校の国語の授業のときに先生がカトリックの信者はどのくらいいるか、手を挙げてみろといわれ、挙げてみると約3分の1いました。先生は、ここは信者が多い方の地域だと言われました。また、高校のときの世界史の先生がマリア様の受胎のことを疑問視しているという発言に、クラスの中で反発が起こり、結局先生に謝ってもらったことがあります。ちなみに私は小・中・高とも公立校に通っていました。 ○ 神父様になろうと思ったきっかけは何ですか。 ● 長崎を離れ、三重県の大学に進学しそのまま三重で就職しました。養護学校です。(現在、地域によって特別支援学校とも言います)。就職した時には、司祭になる気持ちは全くありませんでした。 ある時、仕事の失敗を通して信仰が深まりました。ある先輩の先生に「お前なんか辞めてしまえ」と言われたのです。そのような時に周りの先生方の寛大な態度を通して、神様が本当に自分のことを大切に思ってくださっていることを祈りのうちに悟りました。そして、20代後半に、教会における色々な方との出会いがあり召命を考えました。ある時、召命の黙想指導をしていただき、その時に神様に呼ばれていると思い、決心しました。黙想を指導していただいた神父様に相談して神学生養成担当の神父様を紹介していただきました。そして京都教区の神学生養成担当の神父様の面接を受け、翌2002年に当時の東京カトリック神学院に入学しました。 朗読奉仕者、祭壇奉仕者、助祭となっていったときに、私のなかでどんどん気持ちが切り替わり本当に司祭への道を歩んで行くのだと思いました。そして、2008年3月に司祭叙階されたときには本当にうれしかったですね。 ○ 司祭になって1年が経ちましたが今のお気持ちをお聞かせください。 ● 6月の教区時報にも書きましたが、特に病床訪問で聖体を授けるときに喜びを感じます。聖体がいのちの糧なのだとそのたびごとに思います。 また、週日クラスに通ってこられる方の色々な思いや生活に触れ、皆さんと話をすることによって、私自身深められることが大きかったです。 ○ これからの司祭人生をどのように歩んでいこうと思っておられますか。 ● ミサ、ゆるしの秘跡、聖書を読むことを大切にしていきたいと思います。聖書を読む時に時代背景なども大切ですが、日々の生活の視点から読む、その時の自分にとってどう響いてくるのかということも大切にしたいと思います。 そして、日々の講座を充実させていき、信徒の皆さんと共に学んで行きたいです。 今、37歳で、同級生をみれば、家庭があり、子供がいて、それらを守っていく生活をしています。立場は違いますが、責任があるという意味では、同じで、結婚して、子供がいて、その人が父親らしくなっていくように、私も司祭として、司祭を続けることで司祭らしくなっていけたらと思っています。 ○ 今日は本当にありがとうございました。 TOPに戻る
今回は外崎豊(とのさきゆたか)神父様にお話を伺いました。 (○は編集子、●は外崎豊神父様です) ○ こんにちは神父様、今日は神父様になられたお話をお聞かせください。 ● はい。高校卒業から約10年間、神学校に入るまでは色々な仕事をしていました。紳士服の販売や事務機・教材の営業と販売、トラックやクレーン車の運転手など、いくつかの仕事をしました。これと同時に、夜はずっとナイトクラブでバンドをしていました。 ○ それがどうして神学校へ? ● 当時、構造不況で、今で言うリストラです。夜の仕事も生バンドを使ってくれる店も少なくなり、カラオケの大型機を導入する店が増えてきたので、これまたリストラといったところでした。 ○ なるほど。 ● 職安に通っている頃に、教会の青年会の先輩から執拗に「青年対象の黙想会に行け」と言われ続けたのです。たまたま勧められたのが男子のトラピスト修道院で開催された第1回目の召命黙想会です。「とにかく食事が最高」と言う誘いに負けてしまい、自給自足のおいしい食べ物を食べに参加しました。黙想会も終わる頃、母親に冗談で「気に入ったからもう帰らないよ」と電話したところ、予想に反して「いいよ」と即答され、なんだこれはいったい! と考えてしまったのです。 ○ お母様の祈りを知ったということでしょうか。 ● そうですね。母が息子である自分の召命のことをずっと考えていたということを知り、その時から自分の召命について、真正面から考えるようになったのです。その黙想会は夏のことでしたが、それからずっと召命について考えて、同じ年の秋にもう一度その修道院へひとりで行って、自分の気持ちが本物か体験入院(修道院なので入院!)させてもらったのです。その期間は約2週間でしたが、祈りと労働の生活の中で、自分の経験を生かすには、塀の外で生きる方が良いと決断し、そこから教区に身柄が移されました(笑)。そこから教会に居候しながら予備校通いが1年半続いたのです。当時、神学校に入るのには東京カトリック神学院と上智大学神学部の両方に合格しなければならなかったのです。今は大学受験などないですけど。 ○ 神学校生活はどうでした? ● 色々と大変な思いもしましたが、良き友にも恵まれ、今では楽しい思い出です。以前にバンドをしていた関係で、神学校入学当初から毎日の典礼や典礼音楽の時間にオルガン奉仕をさせていただきました。翌朝のミサのためにオルガンを夜遅くまで練習して、ミサに寝坊した失敗などありました(笑)。そして、よく飲み、よく語り合った友人たちはかけがえのない存在になりました。 ○ 司祭となった現在はいかがですか。 ● 全国各地でたくさんの先輩や後輩が活躍しており、場所は違えども、同じミサを捧げているということは大きな恵みであり、大きな力なのです。十数年前に京都の同僚を頼って札幌教区から引っ越してきましたが、これも先輩たちの配慮があったからこそできたことなのです。司祭になるための動機はそんなに重要ではないと思います。バックボーンと言いますか、神様と仲間への強い絆が大切ではないかと思います。 TOPに戻る
今回は村上眞理雄神父様にお話を伺いしました。 (○は編集子、●は村上眞理雄神父様です) ○ こんにちは神父様、今日は神父様になられたお話しをお聞かせください。
● 私は幼児洗礼で1929年4月13日に生まれ29日に受洗しました。小学校のときから司祭になりたいと思っていました。恩師であるメリノール会のマッケシー神父様の影響です。衣笠教会の全身のミッションステーションが竜安寺に あり、自宅から近かったので早朝ミサに毎日与り、侍者をしていました。その時に神父様の姿をみて幼心に神父になりたいと思いました。 ○ ご両親に相談されたのですか。 ● 両親に司祭になりたいと相談するとだめだと言われました。当時、日本では長男は跡取りのため神父にはさせない風習がありました。ところが宣教師たちに聞くと、外国では長男であっても司祭になっていると聞き、小学校は公立に行きましたが、父神父になるのなら学者神父になりなさいとの助言から、医者を目指そうと中学受験をしたのですが落ちてしまいました(笑)。そこで古屋司教様に相談したところ、どうしても神父になりたいのなら小神学校に行きなさいと言われ、東京、福岡とどちらの小神学校に行くか悩んだときに、戦時中だったため東京より田舎の方が食事に困らないと考えて、昭和18年に福岡泰星中学校(小神学校)に行きました。 ○ どのような勉強をなさったのですか ● 小神学校ではラテン語の勉強が中心でフランス語を学び、あとは普通の中学校の勉強をしました。そして、放課後に初歩の神学として公教要理を学びました。そのあと中神学校(今の哲学科)に進む予定でしたが、終戦で一時学校が閉鎖になり自宅待機を余儀なくされました。再開後中学3年生の授業を受け1948年に19歳で卒業しました。司祭を目指すために中卒の学歴で福岡サン・スルピス大神学校に入学しました。本来ならラテン語科を2年、哲学科を2年、神学科を4年なのですが、小神学校から来た者はラテン語の基礎ができているから、優秀であればラテン語科が1年と短縮できるのです。私はギリギリでなんとか1年短縮することができました。そして、1955年3月21日26歳のときに河原町教会で古屋司教様により司祭叙階されました。私の時から京都教区の叙階式は信徒が与れるようにと春分の日に行なわれるようになりました。 ○ 司祭叙階まで挫折はなかったのですか。 ● 挫折はまったくなかったです。それよりも物心がつき始めると、幼児洗礼のため何も自分の努力なしにお恵みをいただいたのだから、そのいただいたお恵みを人に伝え、分け与えて行く事ができるのは司祭である。このように思い司祭職を目指しました。 ○ そのように思われたのはいつごろからですか。 ● 幼いころは神父様の姿を見て「神父になりたい、神父になりたい」と思っていましたが、小神学校の時には明確にこの思いが芽生えました。そして、当時は第二バチカン公会議前でしたので、副助祭というのがあり、その叙階を受け独身の誓約をした時に司祭になれる喜びで満ち溢れました。 ○ 眞理雄と名づけられたのは何か予感があってのことでしたか。 ● いえいえ父とすれば、マリア様に捧げる子として生まれる前から決めていたのですが、男の子でしたのでビックリして眞理雄と名づけてくれました。ですから、私の霊名は正式には、ヨゼフ・マリア村上真理雄なのです。 ○ さて、司祭になられて54年振り返られて、これから司祭を目指す方にメッセージをください。 ● 私も幼いときに医者になりたいと思いましたが、この医者というのは肉体的な治療をして人々を助ける。 しかし、司祭というのは霊的な医者であり魂の救霊ができる、だから素晴らしい奉仕職であると思います。また、侍者をすることを続けることで司祭を目指す心が芽生えてくると思います。司祭を目指さなくても、信徒として絶えずミサに興味を持ち大事にし、奉仕活動をしていくことが信徒の共通祭司職に繋がって行くと思います。 ○ 今日は本当にありがとうございました。 TOPに戻る
今回は北村善朗神父様にお話を伺いました。 (○は編集子、●は北村善朗神父様) ○ こんにちは神父様。今日は神父様になられたお話をお聞かせください。 ● そうですね。司祭への召し出しについてお話しするためには、まずわたし自身の洗礼についてお話しなければならないと思います。 わたしの生まれた滋賀県米原市の湖北地方は、浄土真宗が盛んな土地柄で、家族皆で朝晩、お内仏に手を合わせるというような家で育ちました。小学校の間は、近所のお寺の日曜学校に通っていました。全くキリスト教とは無縁な環境であったということです。 ○ そのような環境の中で洗礼を受けられたきっかけは何ですか。 ● 最近思い出したのですが、わたしが小学生の頃、親に連れられて本屋へ行き、何でも好きな本を買ってあげるといわれて、わたしは偉人伝のなかの「イエス・キリスト」という本を選び、買ってもらいました。そのとき、わたしが子供心に分かったことは、イエス様はわたしの罪のために死んでくださったということでした。そのようなことがあったこともいつしか忘れてしまい、高校生のときたまたま家にあった聖書を読み始めました。それがきっかけで長浜市にある教会に通い始めました。教会はカトリック教会とプロテスタント教会とがあったのですが、カトリック教会に通うことになりました。そして、高校生の間、毎日曜日ミサに通って、キリスト教の教理を学びました。実はそのとき、何も分からなかったのですが、ただ何かに惹かれるようにミサに通いました。そして高校3年生の時に洗礼を受け、それと同時に司祭になりたいという望みをいただきました。 ○ 司祭になるまでのお話を聞かせてください。 ● 司祭になるためにはどうしたらいいのか何も分かりませんので、長浜教会を担当しておられたメリノール会の神父様に相談したところ、京都教区に召命促進委員会(現在の信仰教育委員会)があるからそこの黙想会に行ってみなさいといわれ、黙想会に参加し、そこで今は亡き松本秀友神父様と出会いました。わたしの思いを打ち明け、それでは毎月1回会いましょうということで、大学の4年間、毎月1回、指導をして頂きました。そして、大学卒業と共に東京の神学院に行くことになったのです。 神学院の生活は今振り返ると、本当に貴重な6年間であったと思います。生涯の友となる仲間と出会いました。派遣されている場所は離れていますが、今でも毎年、同窓会で数人が集まっています。神学院の生活は楽しいことも多かったのですが、苦しいことが多かったように思います。それは、神学院が要求してくる司祭像とわたしが心の深みで感じていたことの間に乖離があったからです。そういう時代でもあったのでしょうが、神学院から要求されたのは教会のリーダーとなるような人間的な司祭像でした。わたしが望んでいたのは信仰者だったのです。そのことはわたしにとって大きな苦しみとなり、自分の召命も疑いました。しかし、神様は全く不思議な摂理的ななさり方でわたしの疑いを取り除き、道を示してくださいました。そして、1991年に司祭に叙階されました。 ○ 司祭になってからどうでしたか。 ● 司祭となって4年半、松本秀友神父様の下で司牧に携ったあと、田中司教様のお許しをいただいて3年間海外へ研修に行かせていただきました。祈りの生活をしながら、キリスト者として基本的な生き方である霊性を学ぶためです。そこで一番何を学んだかというと、机上の知識ではなく、一言でいえば「自分は何者でもない、無でしかない」ということでした。ことばも出来ない、文化や習慣の違いから来るカルチャーショックなど、自分の無力さ、限界、不能、弱さ、罪深さをいやというほど思い知らされました。そのような状況の中で、キリスト者としてどのように神への信仰と信頼に生きるかということを具体的に学ばせていただいたように思います。この体験こそが、今日のわたしのすべての基礎となっているといっていいでしょう。 ○ 今のお気持ちを聞かせてください。 ● 今振り返ってみると、神様は、わたしを司祭職にお呼びになるためにまずキリスト者へと呼び、キリスト者とするために人間へと呼び、人間とするためにこの世界へ、「いのち」へと呼んでくださいました。 神様は全く思いもよらない不思議ななさり方で、わたしを今あるところへ導いてくださいました。わたしの人生そのものが、ひとつの奇跡であると思います。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ(マルコ10:27)」ということばを思い、深い感謝に満たされます。わたしの司祭職への召し出しは、唯々、神のあわれみの業であるとしかいえません。わたしがキリストの司祭職にふさわしくないことは、他のだれよりもわたし自身がよく知っています。しかし、今は、神様への感謝として司祭職を、最後まで忠実に果たさせてくださいと祈っています。 TOPに戻る
今回はカルメル修道会の九里彰神父様に宇治修道院でお話を伺いました。 (○は編集子、●は九里彰神父様) ○ こんにちは神父様。今日はよろしくお願いします。 ● こちらこそよろしくお願いします。 ○ 神父様は幼児洗礼ですか。 ● いえ、私は成人洗礼で、しかも遅いのです。30歳の時に洗礼を受けました。カトリックとの出会いは、上智大学で学んでいた時に、神父である教授や友だちとの出会いでした。大学で哲学を学んでいたことが洗礼への道のりでした。思春期の高校時代に不登校にはならなかったものの、気分的には不登校でした。救いは友たちの存在でした。そんな時に、なぜ人間は生きているのかとよく考えて悩んでしまい、自分だけが幸せになっていいのか、皆が幸せにならないなら本当の幸せはないのではなどと思い、そのため受験勉強にもまったく身が入りませんでした。そして、その答えを知ろうと大学では哲学を専攻しました。その当時はキリスト教信者になる、つまり洗礼を受けることなどは全く考えていませんでした。 ○ 洗礼を受けられたきっかけはなんですか ● 大学を卒業して大学院に行くまでの間、たまたま奨学金をいただき、ドイツのミュンヘン大学へ留学しました。イエズス会経営の学生寮にいたのですが、隣にはイエズス会の哲学大学があり哲学だけを教える珍しい大学でした。その時にも影響を受けました。そして、大学院に進んだ26歳のときにゼミの仲間にシスターがいて、そのシスターがいやがる私を強引にK・リーゼンフーバー神父の聖書講座に引っ張り込みました。その時から神父の勉強会、黙想会、座禅会に通うようになり、その間30歳まで大学院にいました。そして、30歳の誕生日に洗礼を受けました。それから秋田県の聖霊高校で2年間教師をしました。この時から召命について考え始め、すべてを捨ててイエス様の後に従いたいという思いが強くなりました。 ○ 司祭叙階までのお話を聞かせてください ● 33歳のときに、イエズス会に入会しましたがすぐに出ました。その後、ドミニコ会の押田成人神父の『高森草庵』ですごしました。続いて、名古屋の瀬戸にあるカピタニオ高校で教師として3年すごしました。教師の仕事は私にはあっていましたしこの道でも十分やっていけるとの思いもありましたが、やはりキリストの呼びかけに応えたいという思いが強くなり、退職し、再び上智大学にある中世思想研究所で働きながら召命のことを考えました。そんな時にカルメル会の奥村一郎神父に出会い、40歳のときにカルメル会に入会しました。そして、宇治修道院で志願期・修練期の2年間、上野毛修道院で5年間、神学生としてすごした後、上野毛修道院で1997年に司祭に叙階されました。すでに47歳でした。 ○ 神父様になられて13年、現在のお気持ちを聞かせてください ● 人のために何かをしたい思いは教職でも果たせたのですが、キリストのことを伝えるのは難しかったのです。神父になってキリストの福音を多くの方々にお話しできることは、とても嬉しいことです。パウロが「私が福音を告げ知らせても、それは誇りにはなりません。そうせずにはいられないからです。福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」と言ったところでしょうか。そして、自分の喜びや楽しみを求めるのではなく、惜しみなく神様のために誰かのために尽くせることが、私にとって何よりの喜びであり、神父になって良かったことです。 ○ 今日は本当にありがとうございました。 TOPに戻る
今回は奥村豊神父様をお迎えしてお話を伺いました。 (○は編集子、●は奥村神父様) ○ キリスト教との出会いを聞かせてください。 ● 小学校低学年のころに「イエス」という絵本を買ってもらったのがキリスト教との出会いでした。でも、教会に行くことはしていませんでした。社会人になって塾の講師をしていた25歳のときに、通勤圏内にあった河原町教会の入門講座を受講するようになり、翌年には伏見教会でメリノールのチャーリー神父様との出会いがありました。そのときから毎週教会に行くようになり、そして27歳のときに受洗しました。17年前のことです。 ○ 司祭を目指すきっかけとなった召命はありましたか。 ● 洗礼を授けてくださったチャーリー神父様がその秋に帰天されたのがきっかけでした。司祭館に遺骨が安置されていたので、神父様の遺骨の前で色々な思いをめぐらせていた中で、アメリカから来られた神父様が異国の地で死ぬ間際まで宣教されていたこの世界は、魅力のあるものだろうなと思いました。そして、チャーリー神父様の死が召命を考えるきっかけとなりました。 ○ 神学校時代はどうでしたか。 ● 神学校を目指すために、月1回松本秀友神父様と北村善朗神父様の面接を3年間受けから神学校に行くことになりました。入学した年の夏休みに実家に帰ったとき、風邪のような症状が続き、日に日に体調不良に陥っていきました。最初は疲れているのかなと思っていたのですが、8月22日の朝目覚めるとドアのノブが回せないほどの状態になっていました。すぐに救急車を呼んで病院に行ったのですが、原因不明とのことで、一旦、自宅に戻りました。次の日はもっと症状が重くなっていたので、もう一度救急車を呼んで病院に行きました。その日は緊急入院しましたが、どんどん症状が悪化するため、京都第一赤十字病院に転院して検査をした結果、ギラン・バレー症候群とわかりました。 ○ 入院中、意識はあったのですか。 ● 意識はあり、周りの会話が理解できるほど頭(脳)だけはしっかりしていましたが、瞬きも困難なほどの全身麻痺が5ヶ月間続き、意識のある植物人間状態でした。最初の一ヶ月間は、人工呼吸器をつけて治療をしました。治療と言っても治療薬がないため、血液を入れ替えるなど、ほとんどが自然治癒に任せるしかありませんでした。立てるようになってから3ヶ月間はリハビリを行いました。発病してから1年経ってからやっと箸が持てるぐらいまで快復しました。でも、箸が持てない状態で神学校には戻っていました。それから6年後に司祭に叙階されました。 ○ 今のお気持ちを聞かせてください。 ● 発病するまでの方が、司祭になることに対して不安がありましたが、発病してからは、このような病気を抱えては他の仕事は出来ないとの開き直りの気持ちがあり、司祭になることも生きることに対しても楽観的になりました。そして、司祭になって、司祭にしか出来ないこと、つまりミサを捧げられる喜びが得られたことが一番の幸せです。私はミサを捧げたくって司祭になりました。 ギラン・バレー症候群とは、急性・多発性の根神経炎のひとつで、主に筋肉を動かす運動神経が障害され、四肢に力が入らなくなる病気である。重症の場合、中枢神経障害性の呼吸不全を来し、この場合には一時的に気管切開や人工呼吸器を要する。日本では特定疾患に認定された指定難病である。 TOPに戻る
今回は福岡一穂神父様をお迎えしてお話を伺いました。 (○は編集子、●は福岡師) ○ ご出身地はどちらですか。 ● 大阪府高槻市です。幼児洗礼で気がついたら教会に行っていました。家庭の事情で家事一切を私がしていました。そのおかげで料理が得意になりました。高校生の時に三重県名張市に引越しをして名張教会に行くようになり、そこで京都教区と出会いました。 ○ 教会へはご自分の意志で行かれたのですか。 ● 高校生ですから自分の意志で行きました。教会とは、神とはイエスとはどのような方か知りたかったのです。そのうち、京都教区の高校生会に参加するようになり、当時の養成担当司祭であった瀧野正三郎師と出会い、色々な話を聞くようになりました。 ○ 卒業後の進路はどうされたのですか。 ● 子供の頃から自炊をしていたことを活かして、食品関係の会社で仕事をしていました。仕事をしながら、これも瀧野師が担当していたJOC(カトリック青年労働者連盟)の活動に参加するようになりました。JOCには綺麗事がなく大変な活動体でしたが自由さがありました。そして、瀧野師のような自由さへのあこがれが、司祭を目指すきっかけとなり、一番自由だったイエスのことを知りたいとの思いで、22歳のときに神学校に入学しました。 ○ 神学校ではどうでしたか。 ● 土・日曜日によく東京教区の多摩教会にお手伝いに行った時に、信徒との関わりの中で、私の人間性をありのままに受け入れてくださり本当によい体験をしました。また、京都に帰ってくると桃山教会でラッキー師と信徒にお世話になり、ここでもまた自分の気持ちを隠さずありのままに表現できる環境で過ごすことができました。 ○ 叙階のときのお話を聞かせてください。 予定されていた1993年3月に叙階されることができませんでしたが、田中健一司教様がカルメル会黙想の家で一ヶ月間、毎日お祈りをしてくださいとの優しいお言葉をかけて下さり4月に叙階されました。 ○ 司祭になられて17年、今のお気持ちを聞かせてください。 ● 信徒との関わりの中で、私に対して言いたいことを素直に隠さず表現してくだされば、それだけで十分だと思います。例えば、「仕事が忙しくって教会には行けませんが、教会外のこのようなことで頑張っています」と言って欲しいのです。お互いに大事なものを交流することで、「みことば」も、「秘跡」も、そのような関係性の中で成り立っていることを実感したいのです。 ● 私は、2年前から大きな病を抱え、昨年は免疫不全の病気で一ヶ月半入院しました。「みことば」に従ってきたのに、また神は私に、このような苦しい試練を与えるのかと思い躓きましたが、この試練により教会が宣べ伝えようとする神は、私にとって一つの類比的表現でしかなかったのだと分かったのです。 自分が病気になって、イエスが病人のところに行かれたことの意味がよく分かりました。そういうところから本当の神の愛を感じないといけないと思っています。 今、私とイエスとの距離がグ〜ンと近くなりました。 そして・・・ イエスが、私に、共に歩もうと言ってくださっています。 TOPに戻る
今回は柳本昭神父様をお迎えしてお話を伺いました。 (○は編集子、●は柳本神父) ○ 子供のころのお話を聞かせてください。 ● 私は京都生まれで、両親とも曾祖父母つまり明治の時代からのカトリック信者でした。 中学校は洛星へ行きました。勉強があまりできなかったので、「宗教」や「ミサ」を重要視しました。宗教を自分の旗印にしたかったのでしょうね。修道院のミサにも積極的に与り、神父様やブラザーにかわいがられました。そういうことから、教区の神父様から教区司祭になったらと勧められ、名古屋の小神学校で共同生活をしながら南山高校へ通うことになりました。 ○ 小神学校ではどうでしたか。 ● 高校2年生の時に司祭の養成方針がかわり、名古屋の小神学校が廃止され、多くの仲間は小神学生をやめたのですが、私は京都教区の計らいにより、神学生候補者として残してくださり、一人で下宿をして南山高校に通い卒業しました。そして大学卒業後に大神学校へ行く約束をしました。 その後、同志社大学で、民俗学を学びました。卒業時に田中健一司教様にお願いした上ですぐに神学校に行かず、仏教大学大学院の修士課程へと進みました。そして、2年後にもう一年神学生になるのを延ばすつもりで田中司教様のところに相談に行ったのですが、司教様は決意して来たのだと思われ、神学校入学の手続きの話をなさいました。司教様の嬉しそうな顔を見ていると言い出せなくなってしまい、結局大神学校へ行くことになりました。 ○ 神学校ではどうでしたか。 ● 公会議後の神学を学び、教会のこと、秘跡のこと、そして聖書のことなど、今まで教会の教えに対して感じていた疑問や違和感が洗い流され、目が開かれる思いでした。 そして、認定式や選任式の段階を歩んでいくたびに自分の中で召命を確認して行きました。神に導かれて歩んできたのだと思います。その結果、叙階されて今年で23年になります。 ○ 今の思いをお聞かせください。 ● 神学の勉強や先輩司祭・神学生仲間との交わりを通して学んだイエスの教えの真髄や、神とわたしたちとの関係を伝えたいという思いがあります。それを私は司祭としての役割を通して伝えたいです。私が子どものとき、教会の教えの中で、神の愛よりも罪や地獄の恐ろしさのほうが印象に残りました。そして、夜になるとこわくて泣いたりしました。今の教会の子どもたちにそのような思いをさせたくありません。神の愛の豊かさを、子どもたちにもすべての人にも知ってほしいのです。 私の体験から感じることは、「重大な決意を持たなくても」司祭を目指すことができるということです。「なんとなく」司祭になってみようかなと思った時が、神が呼びかけてくださっている時なのかもしれません。その時は、何も心配することはありません。神の呼びかけに素直に従えば、その後のことは「神が導いてくださるのです」。司祭になりたいと思ったときに、いや、自分には無理だと思わずに、それを神からの呼びかけとしてまず従い、あとは神と確認しながら進めばよいのです。神が望まれるなら別の道も用意されるでしょう。自分はふさわしくないかとか、自分には無理だという考えは、人間の思いであり、「そのようなあなたを神は司祭として必要とされているのかもしれません」。 TOPに戻る
今回は東京在住の京都教区司祭 国本静三神父様に十数回のメールの送受信でお話を伺いました。 (○は編集子、●は国本神父) ○ カトリックとの出会いを聞かせてください。 ● 音楽の受験勉強をしていた高3の夏休みにベルナノス「田舎司祭の日記」を読み、そこはかとなく描かれた司祭像に興味をおぼえました。すぐその9月から故丸山神父様の教理講座に通い始めたのが、決定的なカトリックとの出会いでした。 ○ 神父様になろうと思われたお話しを聞かせてください。 ● 教理の勉強と同時に「召命」を強く感じ、神学生になるためには上智大学に行かねばならないこと、受洗後3年経過していることが神学生になる条件であることを知りました。その時点で音楽の受験勉強を中止し、上智大学の一般の哲学科に入学しました。その夏、河原町教会で受洗し、神学生が学ぶスコラ哲学科に転科できることを夢見ていました。神の存在を強く感じ、神と人を愛し大切にする司祭の生き方に惹かれたからです。 ○ 神学生になられてからのお話しを聞かせてください。 ● 受洗後半年で故古屋司教様から寛大にも神学生として認可され、スコラ哲学科に転学し、これから8年間の神学生生活。 まず共同生活の難しさを感じ、わがままな自分と向き合うことになりましたね。また食糧事情も悪い時で、何事にも強制しないで自由にやらせてくれた両親さえも、食事の愚痴を言うとさすがに叱られた(笑)。 ○ 音楽との関わりについて聞かせてください。 ● 音楽は真善美の神の姿のように思います。8年間の神学校生活でオルガニストを務め、神学部の4年間はパイプオルガンに恵まれました。高校まで習っていたヴァイオリンも元気のパワー源となり、病院訪問活動でも大いに役立ったかも(笑)。 〇 叙階されて何年になりますか? ● この7月で43年、新築河原町教会第1号。叙階は人生最大の喜びでした。古希の今も同じです。27歳 という若さと未熟な私に寛大な理解を示してくださった古屋司教様には感謝の気持でいっぱいです。叙階後に作曲をエリザベト音楽大学で1年、東京音楽大学に3年編入し、続いて研究科で2年勉強、後にローマ教皇庁音楽院でも研修しました。中央大学で16年、上智大学で28年間、音楽史や教会音楽等を教えています。 ○ ご病気について、お聞きしてもいいですか? ● 2008年夏に胆管癌の14時間に及ぶ大手術、当日は叙階記念日でした!何があっても不思議はなかった。皆さんの励ましと祈り、大塚司教様の来訪も大きな力となりました。皆に奇跡的快復と言われ、かのトマスも驚くようなキリストのお傷より大きい35センチの傷跡も、今はあまり目立たない(^^)。 ○ 43年間の司祭生活、今のお気持ちを聞かせてください。 ● ふさわしくないのに突然聖霊に導かれて、司祭や修道者になることを、身をもって感じています。司祭らしさとは?こんな自分がなどと決めつけないで、どんどん若者が続いて出てくることを願っています。そして老若問わずに生きる喜びを、すべては神存在にかかっていると、告げ続けたいものです。 TOPに戻る
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