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京都教区内キリシタン遺跡(京都府下、滋賀県、奈良県、三重県)


21.八木城址
京都府船井郡八木町八木

1565年(永禄8年)京都の教会で受洗したキリシタン大名内藤ジョアンの居城。彼は、1574年(天正2年)にはルイス・フロイスを八木城に迎えるなど宣教活動に尽力した。1614年、家康の禁教令に際しては、家族と共にマニラに流され、1626年(寛永3年)同地で病没。1982年、八木城跡入口には、彼の功績を記念して、顕彰碑が建てられた。


22.細川ガラシア夫人隠棲の地
京都府竹野郡弥栄町味土野

細川ガラシアは、明智光秀の娘であり、細川忠興の妻である。1582年父光秀が本能寺の乱を起こし、その結果間もなく殺害されると、ガラシアも、反逆者の娘として死罪を免れないものと思われた。彼女は、夫と離別、この地に隠遁の生活を送った。やがて、夫との同居が認められ、その後大坂の教会と連絡を保ちつつ侍女から受洗。キリシタン女性としての生涯を送る。


23.京極マリアの位牌
舞鶴市泉源寺 智性院

高さ68センチ「養福院殿」と記された京極マリアの位牌が智性院に伝わっている。以前は、泉源寺にあった此御堂の須弥壇に置かれていたものが、移されてきたものだという。

・京極マリアの墓碑
豊岡市三坂町 旧瑞泰寺

1581年安土でオルガンチノ神父から夫高吉と共に洗礼を受けたマリアは、その後夫の死後も、熱心なキリシタン女性としての生涯を送る。二人の息子、高次、高知をも、また二人の娘をも洗礼に導き、宣教活動において、常に司祭たちへの援助を惜しまなかった。


24.安土セミナリヨ跡
滋賀県蒲生郡安土町下豊浦 セミナリヨ史蹟公園

邦人司祭、邦人信徒リーダーの育成を目指し、イエズス会巡察師ヴァリニャーノの指示により、1580年長崎県島原半島の有馬と並んで、日本最初の神学校として発足した。建設にあたっては、信長が用地を提供、また安土城と同じ水色の瓦で屋根を葺くのを許可するなどの特典を与え、また高山右近は全面的に建築に協力、同年6 月には三階建ての校舎が完成した。三木パウロは第一回の入学生。


25.京極高吉の墓
滋賀県坂田郡山東町 清滝寺徳源院

京極高吉は、1504年(永正1年)に生まれ、のちに浅井久政の娘を娶る。1581年2月安土のイエズス会修院で妻とともにオルガンチノ神父から受洗、妻の霊名はマリアと称した。高吉の霊名は不明。受洗後間もなく死去、徳源院にある京極家の墓所に葬られた。墓所の上段、右から13番目の小さな墓石が高吉のものである。


26.マグダレナの墓
滋賀県高島郡朽木村 興聖寺

京極高吉・マリアの三女、朽木宣綱室の墓。1606年、マグダレナは若くして他界した。夫は仏式の葬儀を営もうとしたが、実母マリアはキリスト教の葬儀を主張して譲らず、結局は、京都四条に新しく完成したイエズス会の聖堂で、器楽の合奏隊をつけた盛大な葬儀を挙行して話題を呼んだ。墓の台石には「秀隣寺殿」と刻まれ、また寺の過去帳には、「慶長十一丙午年三月二十日秀隣寺殿桃巌永悟大禅定尼」と記載されている。


27.永原教会跡
滋賀県野洲郡野洲町永原 永原御殿近辺

1577年設立の滋賀県最初の教会跡。1564年受洗したキリシタン武将三ケサンチョが、一時この地に流された。彼は、ここで熱心に使徒職精神を発揮した結果、武士階級を中心として40名あまりの信徒集団が結成された。永原ニコラオは、この教会の出身で、安土のセミナリヨに入学、長く宣教活動に携わった後、1633年穴吊りの刑による最初の殉教者となった。教会は永原御殿近辺にあったものと推定される。


28.京極マリア出生地
滋賀県東浅井郡湖北町 小谷城跡

京極高吉室マリア出生地。マリアは1542年頃、浅井久政の娘として小谷城に生まれた。のち京極高吉に嫁ぐ。1581年、夫とともに安土でオルガンチノ神父より受洗してマリアと称した。キリシタン大名として知られた高次、高知の二人の息子も、秀吉の側室になった松の丸以外の二人の娘も、母マリアを通じて信仰に導かれた。1606年、入洛したルイス・デ・セルケイラ司教より堅信の秘蹟を受けた。生涯を通じて信仰を守り、布教に努めた。


29.無原罪のメダリヨン
草津市矢橋1356番地 草川氏宅

1964年矢橋の旧家、草川和之氏宅の改築の折、仏像の台座から無原罪の聖母メダリヨンが発見された。縦11.2センチ、横7.3センチ、重さ50グラムの楕円形をした青銅製のメダリヨンで、中央には合掌して立つ聖母像があり、頭には七つの星の冠をいただき、太陽の光炎の衣をまとい、足の下に弦月を踏むルネッサンス期の典型的なデザインで構成されている。日本で同種6枚あるもののうちの1枚。


30.蒲生氏郷出生地
滋賀県蒲生郡日野町西大路 日野城跡

日野の城主、蒲生賢秀の子、氏郷は、1556年日野城に生まれた。織田信長の三女を娶り、信長の死後は、秀吉のもとで戦功を積んだ。1584年あるいは85年頃、茶人仲間の高山右近の勧誘があって、キリシタンに入門した。霊名はレオンであった。1595年伏見で死去したが、高山右近が信仰的な立場から、その最後を看取った。


31.高山右近受洗の地
奈良県宇陀郡榛原町

1563年、それまでキリスト教の迫害者であった高山飛騨守が、一転して熱心なキリスト教徒となり、翌1564年には、息子右近も家族とともに受洗して、ジュストと称した。高槻の城主として、鋭意領民の改宗に努め、秀吉の追放令にあたっては、棄教を促されるも拒否、領地を没収されて、以後もっぱら信仰者としての生涯を生きる。1614年マニラに追放されて、同地で死去。


32.浦上キリシタン流配の地
大和郡山市茶町 旧雲幻寺ほか

1870年全村あげて日本各地に総流配という異常の処置となった長崎浦上村のキリシタンのうち、男女計86名が大和郡山の雲幻寺(現良玄禅寺)に収容された。1873年に高札が撤去され浦上に帰還するまでに、ここ大和郡山の地で4名が死亡した。ビリヨン神父によって建てられた記念碑は、その後郡山カトリック教会の境内に移されて現在に至っている。


33.浦上キリシタン流配の地
伊賀上野市鉄砲町

1870年(明治3年)全村あげて日本各地に流配された長崎浦上村のキリシタンのうち、男女計58名が鉄砲町にあった旧兵舎内に収容された。待遇は比較的よかったが、台風で潰れた家屋の下敷きになって死亡した伊王島のおシュンをはじめ、新生児を含む11名がこの地で生命を失った。後に農業に従事していたが、明治6年高札が撤去され、7 月24日ようやく浦上に帰着した。


34.浦上キリシタン流配の地
三重県一志郡白山町二本木

浦上キリシタン戸主22名を含む計75名がこの地に流配され、かつての藤堂藩一志代官所跡に収容された。当初は、種々改宗のための説得があったが、それに応じなかったため、やがて説得もなくなり、全員一人の棄教者もなく、明治6年5月21日無事浦上に帰国した。


35.中島長兵衛殉教地
津市西丸之内 津城内式部倉の空地

津城内式部倉の空地(現市役所構内)は、武士中島長兵衛夫妻が逆磔になり、男子2人は父母の面前で打首になった場所だと伝えられている。


36.牢獄跡
津市西丸之内

かつて津城内の牢獄がこの地にあった。中島長兵衛の下男、研屋長右衛門が信徒として検挙され、拷問の末寛永14年2月この獄中で死亡した。その子2人は打首になったという。また八幡町に住んでい た八左衛門という者が信徒として検挙され、きびしい取り調べの末、天和元年(1681年)5 月10日に 牢内で死亡した。


37.鯰江九右衛門ほか殉教地
津市丸之内

この場所は南堀端の東端岩田堤の空地があった所で、ここで武士鯰江九右衛門、鉄砲足軽1名など、数名のキリシタンが逆磔になった。その後、寛永16年に永田少蔵、古賀半七、森島藤三郎の3人が逆磔になった。なお、鯰江九右衛門の親族など計23名は塔世川下流の渡瀬で打首になったと伝えられている。